都心にある癒しのスポット!東京ドームに隣接する日本庭園、桜や紅葉、日本の四季を楽しむ

マイ催事記

小石川後楽園は、大きな池を中心にした日本庭園で、池の周りを歩いて回りながら四季の景色の変化を楽しめる癒しのスポットです。また、歴史のある庭園では、江戸時代、大勢の人が入れるため社交の場としても使われていました。広い庭は、大きく「海の景」「川の景」「山の景」「田園の景」の4つのエリアに分かれています。なお、ボランティアによる庭園ガイドツアーも開催されていますので、歴史的背景などを楽しく学ぶこともできると思います。

都心にある癒しのスポット、小石川後楽園は、年末年始を除いて毎日開園しています。最寄り駅より徒歩で15分、入園料金は大人300円で65歳以上は150円です。

小石川後楽園、東京ドーム、ラクーア

小石川後楽園は、国の特別史跡、特別名勝にされている都立の日本庭園です。文京区後楽一丁目に所在し、隣接して東京ドームやラクーアがありまして、コンサートやイベント、休日のアミューズメント施設は大勢の人で賑わっています。子供から大人、高齢者に至るまで様々な施設で楽しめるエリアであると言えるでしょう。

都会の喧騒を逃れて、静かな場所で自然に癒されてみたい時には、隣接する小石川後楽園に入園してみることをお勧めします。

小石川後楽園の歴史

小石川後楽園は、江戸時代初期に水戸徳川家の江戸上屋敷内に造られた築山泉水回遊式の日本庭園、大名庭園です。

現在は、東京都が管理している庭園で、面積は約2万坪あり、開園は昭和13年(1938年)です。

水戸藩初代藩主 徳川頼房、2代藩主 光圀 により築造

小石川後楽園は、江戸時代初期の寛永6年(1629年)に水戸徳川家初代藩主・徳川頼房が、江戸の中屋敷(明暦の大火後に上屋敷となる)に築造し、2代藩主・光圀の修治により完成しました。江戸時代の大名庭園として現存する最古の庭園です。

徳川家康 第11子 頼房

徳川家康の第11子として生まれた頼房は、7歳の時、徳川御三家の一つの水戸藩を賜りました。水戸藩は、他の御三家に比べて石高が半分で、官位も低かったが、参勤交代制度ができて藩主が江戸に常駐するようになると、将軍の監査役として「天下の副将軍」と呼ばれ政治を執り行うようになりました。

水戸藩初代藩主徳川頼房の人柄は、剛健で、武勇に優れ、学問を好み、学者を招いて儒教や神道を学んだり、芸能や茶事を好んだと言われています。

頼房は、度々江戸城に出向いて、三代将軍家光とともに能や猿楽芝居を観賞したり、茶会に参加しました。家光と頼房は、趣味を共有していました。また、伊豆の庭石などを将軍家から下付したり、泉水の形を直接指導しました。

後楽園の造成は、徳大寺左兵衛という人物が、山水の景色を造り、中島に巨石を立てたとされています。左兵衛は、小石川の地形を生かし庭園の景観を造成しました。なお、苦心して立てたと言われている中島の巨石は、頼房によって「徳大寺石」と名付けられ、その名は現在も残っています。

後楽園は、頼房によって造成されたと言われていますが、実際には左兵衛が家光と頼房の意匠をくみ取り、現場で細部の指揮を執り意匠を具現化したと言われています。

さらに、この庭園は「黄門様」のモデルとなった2代藩主の光圀によって完成されました。なお、光圀は、明の儒学者・朱舜水(しゅしゅんすい)を招き、意見を取り入れて庭づくりにあたりました。

後楽園とは

「後楽園」という名前は、明の儒学者・朱舜水が名付けたと言われています。

「士はまさに天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」「先憂後楽」

朱舜水が名付けた「後楽園」は、中国の君主の心がけとして説いた「先憂後楽」によるものです。すなわち、「士はまさに天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」という君主たるものの心がけを説いています。

コメント

タイトルとURLをコピーしました