樋口一葉は、日本初の女性小説家です。24歳という本当に短命な生涯でしたが、「文学界」に「たけくらべ」「にごりえ」「うつせみ」「十三夜」など次々に連載執筆活動を続け、大きな反響を呼んで人気作家となりました。
しかし、この絶頂期の時に病気(結核)が悪化してあえなく亡くなってしまいました。
樋口一葉の生涯を辿って、文豪ゆかりの地である文の京(ふみのみやこ)、文京区を散策したいと思います。
樋口一葉の生い立ち
樋口一葉は明治の初め、明治5年(1872年)5月2日に現在の東京都千代田区内幸町で誕生しました。
一葉の父は、樋口規義(山梨県塩山市生まれ)、母は多喜(旧姓古谷)の次女として誕生しました。兄弟は、姉のふじ、兄の泉太郎、虎之助がおり、一葉が誕生したよく翌年には妹くに(邦子)が生まれました。
父、規義の樋口家は長百姓で、一葉の祖父、八左衛門は一葉が生まれる前年に死去していますが、
学問を好み俳諧や狂歌、漢詩に親しんだ人物でした。父の規義も農業より学問を好みました。
父、規義は天保元年(1830年)、現在の山梨県塩山市中萩原の農業・樋口八左衛門・ふさの長男として生まれました。
規義は、父親の影響で幼少より文学を愛し、村内の慈雲寺に開かれていた寺子屋では秀才の誉れが高かったと言います。
この寺子屋で同じ村の農業・古谷安兵衛・よしのの長女あやめ(後のたき)に出会い、二人は結婚を希望するようになったが、あやめの生家は地主階級で家格が違うため規義との結婚は許されなかった。
父 規義28歳、母 あやめ24歳 二人は駆け落ちして江戸へ
規義28歳、あやめ24歳の二人は、安政4年(1857年)4月6日に駆け落ちして江戸へ向かった。
この時あやめは妊娠8か月であった。
勝則は故郷の先輩で、父八左衛門の友人である益田藤助を訪ねた。益田は幕臣真下家の家禄を買って、真下専之丞と名乗り藩書調所(洋楽の研究所)の調役をしており、規義は真下の世話でその調書の使い走りとして江戸での生活を始めました。
それから10年、どのような職業でどのような手段で100両という大金を都合したか不明であるが、とにかく当時『為之輔」を名乗っていた規義は、慶応3年に病気の浅井竹藏から同心株を買い取り幕吏となった。
しかし、その奉行所も翌年の明治維新で廃止となり、鎮台府支配下の市政裁判所となり、規義は奉行所同心から鎮台府付となった。その市政裁判所も一年もたたないうちに廃止となり、東京府に移管された。
明治5年3月25日、後の一葉となる「なつ」が生まれたころは、東京府権少属という下級役人になっており、俸禄は現米3石という薄給だった。
その後明治10年警視局雇となり、まもなく警視庁軽視属となったが晩年には長男の死、次男の家出などの不幸が続き明治21年に警視庁を退職した。
そして、退職金をつぎ込んで新事業に乗り出したが、これが失敗に終わり、残された一葉は過大な経済的負担となった。規義は失意のうちに明治22年7月12日に病没した。60歳だった。
一葉は17歳で父を亡くし、一家を背負う!
樋口一葉は、17歳で父を亡くし一家を背負うことになりました。
一葉は母や妹を養うために作家になりたいと思いました。しかし、そのころの日本には女性の職業作家はまだ一人もいませんでした。「私は、決してあきらめない!」という強い信念を抱いていました。
着物を仕立てたり、駄菓子を売ったり、また質屋に通ったりして・・・・生計を立てていました。
日本が新しく生まっれ変わろうとしていたとき、人々の運命が激しく揺れ動く日々に、一葉は何を見つめてどのように生きたのでしょうか?
樋口一葉の家族と歴史
樋口一葉は、本名は奈津(なつ)といいます。 明治5(1872)年5月2日生まれで、父は規義、母はあやめで、兄弟は長兄、次兄、姉、妹の五人兄弟の次女です。
樋口一葉の年齢ごとの出来事を以下の通りまとめました。
0歳 明治5(1872)年 5月2日に現在の千代田区内幸町にて誕生する
4歳 〃 9(1876)年 本郷6丁目(法真寺の隣)に転居
5歳 〃 10(1877)年 本郷小学校に入学するが、幼少のため退学、私立吉川学校に入学
7歳 〃 12(1879)年 草双紙などを盛んに読む
9歳 〃 14(1881)年 下谷区御徒町(現在のJR上野駅近く)に転居し、私立青海学校に入学
11歳 〃 16(1883)年 青海学校を首席で卒業
12歳 〃 17(1884)年 下谷区上野西黒門町(現在の上野)に転居
14歳〃 19(1886)年 歌塾「萩の舎(はぎのや)」に入門、和歌、書道、古典文学を学ぶ
7歳 〃
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