俳句「古池やかわずとびこむ水の音」と言えば?!・・・・ets

偉人伝記

・「古池やかわずとびこむ水の音」
・「荒海や佐渡によことう天の川」

 俳句と言えば、だれでもすぐに思い浮かべるのは「奥の細道」などで知られる松尾芭蕉ですが・・・。
 この俳句は、小林一茶の句です。芭蕉は、今までに現れた最高の俳人であるばかりでなく、日本の文学者の中でも最も優れた人の一人と言われています。

俳句の革新で「芭蕉に帰れ」と近代的感覚の句を残したのが与謝蕪村でした。

 芭蕉が、元禄7年(169)に亡くなると俳句は大衆的になって広く人々に造られたが、内容は通俗化して文学的な質はすっかり落ちました。
 そのため「芭蕉に帰れ」と俳句の革新が叫ばれ、天明元年(1781)頃より新しい俳句の世界を切り開いたのは与謝蕪村です。

・「春の海ひねもすのたりのたりかな」
・「菜の花や月は東に日は西に」

蕪村亡き後、俳句の文学性は衰えた……。文学性の低下は、明治に入る正岡子規まで続いたという。

 

そんな中、一人個性のあふれた句を作った俳人が、小林一茶(宝暦13年(1763)生まれ)です。

 松尾芭蕉が亡くなってから70年後、与謝蕪村が48歳のとき、宝暦13年(1763)に小林一茶が柏原(長野県上水内郡信濃町柏原)の農家に生まれました。

人間の生きざまをうたった小林一茶

 一茶は、3歳で生みの母親と死に別れ、8歳の時に二度目の母が来てから悲しくつらい少年時代を過ごしました。
 15歳で江戸に出て来ましたが、おそらく商家や寺などに小僧奉公して苦しい生活をしていたのでしょう。
 しかし、元々学問が好きだった一茶は、その間に俳句を覚え若くして優れた才能を認められるようになりました。

 それからの一茶は、まさに俳句一筋でした。昼でも夜でも、思い浮かぶとすぐにメモにしるし、それを句帳に書き改めました。こうして、一生の間に作った俳句はおよそ2万句です。
 松尾芭蕉が約1千句、与謝蕪村が約3千句といいますから、一茶がいかに多くの句を作ったかがわかります。
しかし、その俳句はすべてがすぐれたものではなく、また芭蕉のような深みや、蕪村のような近代性を持ったはなやかさも見られません。
 それでいて、一茶の句が人の心を引き付けるのはなぜでしょうか?
それは、一茶の句の中に投げ出された一茶という人間であり、個性の豊かさがでした。一茶独自の世界観を作り上げました。
 「風雅の心」や理屈を離れて、一人の人間の裸の心であり、どうにも抑えきれない心の現れでした。それが、読む人の心に、きわめてわかりやすく、まっすぐに飛び込んでくるのです。

ああ、あの句なら知っている!読む人はそれぞれに、自分なりにいろんなことを思い浮かべる。


・われと来て遊べや親のないすずめ
・やせがえるまけるな一茶これにあり
・やれうつなはえが手をする足をする
・すずめの子そこのけそこのけお馬が通る
・名月をとってくれろと泣く子かな

・ふるさとやよるもさわるもバラの花
・これがまあ終の棲家か雪五尺
・大の字に寝て涼しさよさびしさよ
・めでたさも中くらいなりおらが春

俳句に一茶の飾らない生活やがまんできない叫びのような句があり、読む人の心を打つ

・夜に入ればせいだしてわく清水かな
・行々子大河はしんと流れけり
・大根ひき大根で道を教えけり
・涼風や力いっぱいキリギリス 

しみじみとするもの、なるほどと感じるもの、おかっしくなったり、いい気分になったり実に不思議!

一茶の句はやぼくさくて、土臭い。一茶の俳句の魅力は、人間性にある。

 一茶は、貪欲なまでに財産(土地)争いを続けました。土から離れられないこの執念と、旅にさすらう漂泊の魂とが、一茶独自の俳句を生み出したと言えます。
 一茶から、人間のやさしさや、愚かさや、醜さなどいろんなことを考えさせられる気がします。

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