本田宗一郎(ほんだそういちろう)は、本田技研工業(通称:ホンダ)の創業者です。明治39(1906)年11月17日、静岡県浜松市に父・儀平、母・みかの長男として生まれました。平成3(1991)年8月5日に84歳で亡くなりましたが、小さな町工場を一代で世界的な大会社に育てました。
「世界一でなければ日本一ではない」という思いのもと会社の技術を高め、二輪車・四輪車の世界的レースに参戦した。度々優勝をして「世界のホンダ」と呼ばれた。そして平成元(1989)年には、日本人で初めてアメリカの”自動車殿堂入り”を果たしました。
大出世を果たしたその輝かしい一生は、日本を代表する「サクセスストーリー」として、その「学ぶべきお手本」としていろいろ紹介されています。
本田宗一郎とはどんな人?
父は、かじ屋(金属を熱し、たたくなどして器具を造る職業)を営み、鉄を打つ「トンテンカン」という音を子守歌代わりに宗一郎は育ち、やがて機会が大好きな少年になります。
子供のころ、村に来た自動車を追いかけたという、自動車との出会いが運命を決めました。ガソリンの匂いもたまりません小学校を卒業すると、東京の湯島にある「アート商会」という自動車修理工場に入社し、子守から修理工になってレーシングカーの製作に取り組みました。
アート商会で夢のマシン「カーチス号」が完成し、「第五回日本自動車競走大会」にエンジニアとして出場しみごと優勝しました。
昭和3(1928)年、アート商会を退所、のれん分けしてアート商会浜松支店をオープンして、故郷に錦を飾る21歳の若大将になりました。
昭和12(1937)年、新会社(東海精機重工業:今の東海精機)を設立して、ピストンリングの開発を進めます。
昭和23(1948)年、本田技研工業㈱(以下ホンダ)を設立する。
バイクのホンダ発進!
昭和24(1949)年、バイクの製造に取り組み始める。初代バイク:ドリーム号が完成する。(後に副社長となる藤澤武夫が、常務取締役として入社する。)
昭和30(1958)年、バイクの生産台数が国内第一位になる。(日本の高度経済成長が始まる!)
憧れの自動車業界へ!
昭和33(1958)年、ホンダのバイク:スーパーカブを発売する。
昭和35(1960)年、政府が所得倍増計画を推し進める。
昭和37(1962)年、ホンダがスポーツカーと軽トラックを自動車ショーで初披露する。
昭和39(1964)年、F1ドイツグランプリに初参戦する!
家庭の三種の神器(さんしゅのじんぎ)
・白黒テレビ
・冷蔵庫
・洗濯機
昭和40(1965)年頃からマイカーブームとなる。
昭和41(1966)年・・・トヨタカローラ、日産サニーが爆発的な人気となる!
「ホンダN360」 一大軽自動車ブームを巻き起こす
昭和42(1967)年、軽自動車N360を発売する。
①乗りやすい
②現代的な軽自動車
③ホンダは自動車メーカーとして広く世間に認められた。
昭和43(1968)年、日本はGNP(国民総生産)世界第二位になった!…経済大国の仲間入り
昭和47(1972)年、CVCCエンジンの「シビック」を発売する。
・ホンダはいち早く低公害エンジンを開発して、マスキー法合格第一号になった。
・「何が何でもやり抜く」という強い意志をみせて、社員一丸となって完成した。
昭和48(1973)年、本田宗一郎社長、藤澤武夫副社長二人そろって退任!「さわやかな引き際」と話題を呼んだ!
昭和24(1949)年、生涯の相棒となる藤澤武夫と出会った宗一郎は、二人で力を合わせて次々とヒットを飛ばし、ホンダを日本一のバイクメーカーに育て上げた。
宗一郎は、65歳を過ぎたころから「引退」を意識するようになった。年を取って、技術の進歩についていけなくなっていた。副社長の藤澤武夫が「辞める」と言ってきたとき、これに後押しされた宗一郎は、自らも「ここが潮時」と退任を決意した。
会長職も「若手の邪魔をしたくない」と断って、二人でそろって退陣して世間の注目を集めました。
昭和63(1988)年、藤澤が83歳で先に亡くなり、宗一郎は平成3(1991)年に入院先の順天堂病院で肝不全のため84歳で亡くなりました。(レースのような人生に終幕)
社葬は断り、「お礼の会」をホンダ本社青山ビルで行い、6万2千人もの人が別れを惜しみました。
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