日本人の名前が付く「間宮海峡」とは?探検家マミヤリンゾウ?! 

偉人伝記

 間宮林蔵は、常陸国筑波郡上平柳村(現在の茨城県筑波郡伊奈町)という、片田舎の貧しい農家の子供でした。生まれた日も、1775年(安永4)とかではっきりしません。林蔵のお父さんは、庄兵衛といい、お母さんはクマといいます。貧しい農家の子供でした。

<年表>
・1775(安永4)年  常陸国筑波郡上平柳村で生まれた。
・1787(天明7)年  筑波山の立身岩で出世を祈った。(13才)
・1780(寛政2)年  江戸に出て村上島之承に仕えた。(16才)
・1799(寛政11)年 初めて蝦夷に渡った。(25才)
・1800(寛政12)年  伊能忠敬に会い、教えを受けた。

・1807(文化4)年  エトロフ島でロシア軍と戦う。
・1808(文化5)年 松田伝十郎と樺太探検に行った。一旦蝦夷に戻ってから、今度は一人で二度目の探検に行った。(34才)
・1809(文化6)年  「間宮海峡」を発見した。シベリア大陸に割った。蝦夷に戻った。
・1810(文化7)年  『東たつ地方紀行』を表した。
・1822(文政5)年  江戸の帰った。(48才)
・1828(文政11)年  シ―ボルトからの小包を奉行所に届けた。その後シーボルト事件が起こった。
・1829(文政12)年  隠密になった。(55才)        
・1832(天保43)年 シーボルトが″間宮海峡” の名前を世界中に知らせた。
・1833(天保3) 年 石見の国)年 この頃薩摩の国へ潜入した。
・1836(天保7)年  白見国の密輸事件をあばいた。
・1844(弘化元)年 江戸で死んだ。(70才)

「日本一の人間になりたい!」と野心に燃えていた林蔵

 林蔵は、ずばぬけて賢く、その上頑張り屋であったことにより、幕府にとりたてられ、江戸に出ることになりました。林蔵が16才のころです。野心に燃えていた林蔵に、これは願ってもない出世の第一歩でした。

 林蔵は、村上島之承という人の従者になりました。村上島之承は、元は伊勢の神官で、測量術に詳しく、その才能を見出されて幕府の役人になりました。
 島之丞は、非常に足が丈夫で、一日に30里(約120km)も歩き続け、それも毎日繰り返しても平気だったといわれていました。
 
 島之丞は、日本中を旅して回り、各地の測量を行っていました。林蔵は、島之丞に従ってそれを手伝い、林蔵の腕はめきめきと上がりました。

幕府の役人が蝦夷へ渡り、北海道から千島のクナシリ島まで調査を開始する!(1798年)

 1799(寛政10)年に、林蔵は初めて蝦夷へ渡りました。25才です。そして翌年、函館で伊能忠敬に会いました。そのころ忠敬は、蝦夷を測量している最中でした。

 林蔵は忠敬のことを”私の師”と呼び、一方忠敬は林蔵を、”親戚のごときものだ”といって、二人の間には親しい付き合いがいつまでも続きました。そして、林蔵は蝦夷の住みついて測量に励みました。

「日本一の人になりたい」という大きな野望に燃えていた。 

樺太は、島か半島か、世界中の地理学者がそれを知りたがっていた!

 林蔵は、「俺が誰よりも先に樺太へ出かけて、そのことを確かめてくるならば、日本中に知れ渡るにちがいない」と、密かに胸を躍らせました。

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